そもそも私がナボコフを読み始めたのは、ゼーバルトの著作に言及があったためだ。
こうはじめに打ち明けたあとは、長い沈黙がおちた。それからやっとマダム・ランダウは話を続けた。あのとき自分は、コルドリエの遊歩道にある公園のベンチに腰をかけて、ナボコフの自伝を読みふけっていた、と。
W・G・ゼーバルト. 移民たち:四つの長い物語 (p.56). 株式会社 白水社. Kindle 版.
その画面のひとつは、ちょうど数日前、私がスイスの雑誌で見かけて切り抜いておいたグシュタート山上でのナボコフの写真と細かいはしばしまでそっくりだった。
W・G・ゼーバルト. 移民たち:四つの長い物語 (p.25). 株式会社 白水社. Kindle 版.
鄙の宿にも同様に言及がある。”あの気球”が上がるシーンである。
ちなみに私にとってヴァルザーのこのスケッチは、子どもの頃大のお気に入りだった本の思い出を書いたナボコフの文章に重なる。黒人ゴリウォッグとその仲間──そこにはこびとというかリリバット人というかがひとり交じっていた──が、続き物の絵入り物語で数々の冒険を繰りひろげるのだ。彼らは故郷からははるかな遠いところまでやって来て、人食い人種の手に落ちる。そしてこんなシーンになる。「果てしない長さの黄色い絹の布から一台の飛行船と、もうひとつ、こびとのための特別に小さい気球がつくられる。飛行船がとてつもない高さにまで上がると」とナボコフは書いている。「乗組員たちは体を寄せあって寒さをしのいだが、一方、そこから離れたところにいる小さなひとりぼっちの飛行家は──彼の恐ろしい運命にもかかわらず私は彼がうらやましい──たったひとり、星と氷の深淵へと漂っていく」。
ゼーバルトの源流と目されるカフカ・ヴァルザーを読むと確かにその精神性に近しいところはあれど、しかし文章の構造は似て非なる。アウステルリッツの、語り手にアウステルリッツの言及をカプセル化させたあの幻想性、複雑怪奇な構造の妙の正体は彼らの著作にはない。その源流はナボコフの賜物にあった。
賜物は5章に分かれている。
第1章 : 主人公フョードルについての提起。詩人にして文芸を生業とする者の日常について。
第2章 : フョードルの背景の詳説。蝶/蛾を追う父に随伴して随所を旅した記憶について。
第3章 : ニコライ・チェルヌイシェフスキーについての論評の執筆、およびヒロイン枠?のジーナ・メルツとの逢瀬。
第4章 : ニコライ・チェルヌイシェフスキーについての論評「チェルヌイシェフスキーの生涯」(作中作が丸ごと章となっている)
第5章 : 「チェルヌイシェフスキーの生涯」への書評について。ジーナとの結末。
主人公は文学者であるためにモノスゴイ高度な話が延々と続く小説である。
主人公作の詩をベースとした評論家との談話やら、実在するロシア文学者に対する延々と続く論評は実際にそれらの著作を読んでいない私にはサッパリなわけで、訳注がないと何を意図しているのかまるで掴めるはずがないような話が多い。そのような緻密な文学者たちの世界に無理やり没入を試みるのもよし、絢爛な情景描写に舌鼓を打つのもよし、それだけでも十分に楽しい(というかそれらのボリュームが多すぎて恐ろしく深い沈着が必要とされる)わけだが、超大枠のプロットを捉えようとすると、
・チェルヌイシェフスキーについての論評を書くまでにフョードルが何を思うか
・実際のチェルヌイシェフスキーについての論評
・論評に対しての書評を読んでからフョードルが何を思うか
という3つが物語の核にある、と私は解釈した。
この本も再読を必須とするため初読時点で印象に残ったことを語ろう。
まずアウステルリッツ、ないしゼーバルトはこの作品から多大な影響を受けているのだろう、という確信を得た。
アウステルリッツには大きな謎がある。マリーなる女性の存在である。
アウステルリッツとマリーの逢瀬はごく僅かだが、語り手がアウステルリッツと別れる最後のシーンでは、アウステルリッツは父親およびマリーの足跡を追う、という言及が為される。
このマリー、いる?というのが3度読んでもサッパリ分からなかったわけだが、ここに来てようやくその意図が掴めた気がする。ゼーバルトは賜物の模倣を試みようとしたのではないか、と。
男と女。あるいは女と男。積年の詩的情緒があるテーマではあるが、ある程度年齢と経験を重ねた人間にとっては、文学における男女のアレコレはぶっちゃけ飽食以外の何者でもない。恋人(あるいはそれ未満の関係)同士の駆け引きやら恋のライバルの登場やら、病気やらなんやらでの離別でのお涙頂戴やら、あーーーーもうお腹いっぱいですと言いたくなるほどにはありがちで陳腐なテーマだ。ゼーバルトはそういった低次な文学には興味がないことを全ての著作で体現しているはずが、唯一の例外が先述したマリーなのである。
ゼーバルトは恐らくナボコフが描写する”男と女観”を体現しようとしたのではないか。そしてそのナボコフ流”男と女観”とは何なのか。まさしくロリータやアーダは”男と女”が主軸に置かれた作品であるわけだが、賜物については幸いなことに”男と女”感は極めて希薄である。フョードルの詩が好きなジーナと出会い、親睦を深め、最後は契りを結ぶ。その途上に(どうでもいい)障害はなにもない。だいたいジーナなる存在が出現するのは250ページを過ぎてからだし、その描写はアウステルリッツにおけるマリーぐらい薄い。
にも関わらずマリーとは違い、ジーナの存在には意味があるように見受けられる。作中では恋人という精神の支えとなる存在ではあるが、それが様々なメタファーとして解釈可能であるからだ。(それが実際に何のメタファーであるかは、今のところ考えがまとまっていない。これこそ再読が必須な領分であろう)
だがジーナの存在に意味があることについては、その美しいラストシーンを見れば一目瞭然だろう。フョードルは外で夕食を食べながらジーナへ契りの言葉を交わし、肩を抱きながら夜の帳が下りる中で帰路を往く。これだけ読めばそれこそ陳腐な恋愛モノの結末のように見て取れるが、(経緯は省略するが)互いに自宅の鍵を喪失しているというささやかだが殊更に重要そうなエッセンスが埋め込まれている。無論この鍵も何らかのメタファーだろうし、他にも星やら菩提樹やら作中で度々登場するオブジェクトに関しても明らかに何らかの含意がある。
で、それらが何を意味するのか。色々思うところはあれど、やはり再読が必要であろう。
ただ今明瞭に分かることとしては、先述した通り賜物はゼーバルトへ影響を及ぼして──もしかするとその文学観の根源にも──いるということだ。
以下の文章は、フョードルが天意の如く辿り着いた文学に対する結論である。
さらば、本よ!幻影たちもまた / 死を猶予してはもらえない。 / ひざまずいていたエヴゲニーが立ち上がっても / 詩人は立ち去っていく。 / それでも耳はすぐには / 音楽と別れられず、物語を / 鳴りやませることはできない……。運命がみずから / まだ響き続けているから……。そして / 注意深い頭にとっては、私が終止符を / 打っても終点にはならない。 / 延長された存在の亡霊が / 頁の地平線の彼方に / 明日の雲のように青くたなびく── / そしてこの行も終わることはない。
スラッシュはプーシキンの十四行詩に倣ったもの(らしい)で、太字であるのも原文ママである。
文学は終わりのない道であること。無粋に簡略化してしまえばそう表現できるだろう。そしてゼーバルトは近しい話をしている。“物書きとは、止められない車輪のごとき悪癖である”、と。
ここでナボコフとゼーバルト両者に面白い対比がある。賜物は終始ポジティブであるが、ゼーバルトの解釈(および著作全般において)はネガティブなものであるということだ。
そこまで分かればアウステルリッツのマリーについても興味深い考察ができるのかもしれない。
ジーナと結ばれて明るい未来を見据えるフョードル、対して離別してから掴まえられるか分からないマリーの軌跡を追うアウステルリッツ。まさしくこれはポジティブとネガティブの、ナボコフとゼーバルトの文学観をそのまま表す光と闇の対比なのではないか。
初読を通して私の拙い知性で確信じみて理解できたのはこれだけである。アウステルリッツで印象的だった蛾についての小咄が、賜物の2章でその源流らしきものがあったりとか、細かい点でやはりゼーバルトが本著から影響を受けたフシがいくらでもあるわけだが、それについては再読してからまた筆を執ることにする。しかし先にナボコフの他の著作を読むか……あと思ったこととしては、賜物は難解ではあるが先述した通りポジティブなものであるため、意外とナボコフの初読にはいいのかもしれない。タフであることには違いないのだろうが。


