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幻想旅情②

結構読んだ感想としては、個人的な嗜好になるのだろうが無意味に長いだけのものは嫌いということが再確認できた。重力の虹とか、百年の孤独とか、失われた時を求めてとか、ドフトエ……ドストエフスキーとか。ユリシーズはまだなんとか。逆を言えば長いもので有意なものは本当に少ないということなのではないかとも思う。

ということでよかったものたちを。

ローベルト・ヴァルザー、フランツ・カフカ、W・G・ゼーバルト

ゼーバルトに繋がる系譜たち。カフカは言わずもがなコンパクトめにまとまった素晴らしい文章を書く。未完のものは意図して読んでいない。ヴァルザーは読んだ時の脳の解釈と現実のズレを愉しめる異次元の体験だった。大真面目に読むと気が狂いそうになるので、魔女の旅々とか挟んで正気を保つ必要があった。いや、魔女の旅々もブッ壊れているんだが。

アルベール・カミュ

私の文章強度を噛み砕く能力と一番合った。異邦人とか非常にコンパクトだが面白いし、ペストも言わずもがな。その偉大さには何も言うべきこともないのだが、個人的には不条理よりも人間の意志に基づいたストーリー運びが好きなんだな、と気付いた次第。ちなみに私が一番キライなのは”アホよって為されたなにかによって物語が動く”というもの。三体とか偉大な作品なのは違いないが、ちょっと運びが好きではないのはそれが理由。

レイモンド・カーヴァー

一転して文章強度がモノ凄く低いやつ。ラノベよりも軽く、下手するとなろうでも通じるのではないか。だが比類なき余韻のあるストーリーで、大聖堂はその極地。文章強度が高いものが闇雲にいいわけではないということの体現だろう。あと村上春樹の訳もいい。カーヴァーを機に村上春樹も色々読んだが、長編はさておき翻訳ものや短篇は読めた。文章強度の中庸こと、Perf50を定義するならば村上春樹がそこにいるのではないかと思う。村上春樹もやはり偉大な作家であるのだろう、フェラチオさせすぎだが。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス

短篇の王。短文なのに文章強度がべらぼうに高い。作家と読者の共通知識のフォーカスを合わせれば合わせるほど読解難易度は下がり、ずらせばずらすほど難易度が上がることがよくわかる体現。例えば我々が慣れ親しんだ公理系からズレた世界で、独自の公理系を作り始めると解釈の難易度が跳ね上がるのは容易に想像がつくだろう。唯心論しかない世界が出てきたりする時点でお察しである。他にもメタ的階層の積み重ねやらなんやらいい出すとキリがない。文量に対しての解釈の広がりが圧倒的すぎるので、ちょっとした時に読んだりするにはベストかもしれない。疲れていたり眠かったりメンタルいかれてたりしている時はその限りではないが。

リディア・デイヴィス

ボルヘス級に短く、余白のある物語たち。だがボルヘスよりは文章強度が低く、読みやすい。疲れている時はこっち。

ナタリア・ギンズブルグ

こちらも短篇が強い。だがボルヘスやリディア・デイヴィスが知性を試してくるのに対して、読者の想像を後押しするような筆使い。描写を極力排した美しい作品のおすすめとしては筆頭に上がる、凝縮文学の手本。

マルグリット・ユルスナール

緻密な長編。想像を喚起させるか?と言われれば微妙。学びのための読書としては優れている。深い没入とともに世界を旅するならば良。

ブルーノ・シュルツ

圧倒的に美しい情景描写。それは言葉選びの妙によってなされているので、言葉に潜っていく深い沈着が必要となる。文章強度は高くないが、集中力を以て読まなければその万華鏡のような世界のイメージについていけない。凝縮された文学といった様相ではないが、短篇としての完成度は高い。


オルハン・パムク、イタロ・カルヴィーノ、トーマス・ベルンハルト、イサク・ディーネセンなど、”刺さらんな……”と思った作家も数しれず。図書館が近場にあることがどれほど恵まれているか人生イチ実感している。

改めて言うが、長いもので有意なものは本当に少ない、と思う。

長い、というものは基本的に薄く広くになりがちであり、階層の積み重ねをしていてもそれが機能的にかつ美しく意味のあるものになっているものは本当に少ない。しかし売上的には短篇よりも長編のほうが圧倒的に上らしい。バチクソ美しい一矢よりも、おなかいっぱいになれるほうがいいというのがマジョリティなのだろうか。個人的にはここに挙げたようなものを見て”この長さでこんなもの書けんの!?”という驚きに浸るほうが楽しいのだが。きっとただの私の嗜好なのだろうな。