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人間の証明

父が脳梗塞で倒れた。
“死”とは生命がなくなることを指すようだが、某辞書によると機能がなくなることでもあるらしい。

面会した父が話す言葉は理路に基づいたものではなかった。
社会性の死。情報の非対称性を均すという意味でのコミュニケーションの一切が不可能になった人間を”生きている”と表現することができるのか、と問われれば私は”否”と答えるだろう。

つまり、私の父は死んだのだ。


人間というのはいつかいなくなるものだ。
その際には”まだいるもの”が”いなくなったもの”に思いを馳せる──ハセル、馳せる?何をだ?

実家で鍋を囲み、家族と父についての思い出を語り合いながら私は思ったよりも父のことを知らないのではないかと思った。

人間を人間たらしめるものは、アイデンティティだ。

食の嗜好、趣味などは話しやすいイージーな領域のアイデンティティだ。しかしアイデンティティには他者と話すことが躊躇われるようなもっと深い領域のものも存在する。”職場で政治、宗教、野球の話はするな”とはよくいったものだが、職場でない家庭内であっても深いアイデンティティについての話をする機会は、少なくとも私にはなかった。

いい例がある。それなりの年齢になった独り身の子が帰省だかなんだかした時に親と行われる”結婚しないの?”とか”子どもは?”とかどうのこうの諍いが始まるようなアレだ。
こういった話題が挙がる時は大体子側が”私の気持ちを分かってくれない”といった愚痴をSNSに挙げ、賛同者のコメントが返信で埋め尽くされて投稿者が悦に浸って終わるだけなのだろうが、事の本質はそういった深いアイデンティティに纏わる会話が家庭内で普段行われていないということに尽きる。

自己のアイデンティティを適切に表現し、相手のアイデンティティを引き出す。それが異なるものだとしても弁論を以て理解或いは説得を試みるというのが理性ある人間として望まれる行為だ。そして時には深いアイデンティティを議題に出すことも重要なのだろう。それがその者の”人間”の理解を深めるといった点で。

私は東京行きの新幹線で見えない富士山を見ながら昔見たCMを思い出した。
YouTubeでも出てくる、焼酎のCMだ。二階堂 父編。

“私の記憶に、いつも後ろ姿で現れる人がいる”
“あの頃、貴方が口にしなかった言葉に、いつか私はたどり着くのだろうか”

私の知らない父と 父の知らない私が 坂の途中ですれ違う──という文章で締められるそのCMは、美しかった。しかし語らないことによる美学、無知の趣といった日本的情緒の美しさは、今の私には脆弱であり不実であるように映る。

話さなければ己を知ってもらえない。聞かなければ相手を知ることはかなわない。
そしてそれは日常での無難な雑談だけでは成し得ない。深いアイデンティティについて語り合う機会こそがその者を知る、そして自身を知ってもらう、人間を証明するための誠実な振る舞いなのだろう。

旅を続けること。学び続けること。私はそれを”背中”から、或いは血から学んだ。
それは、不実だ。次代には弁説を以て応えなければならない。そう思いながら、鍵盤を叩いている。