消化のせいで時間がないが、僅かな時間を塗ってせっせとフリーナの模写を。
模写を、模写を……模写…………も…………
誰これ?
ということでTES3 : MorrowindよりLord Vivecにお越し頂いた。
今日のテーマは神性の表現についてだ。
このオッサンが誰かと超ざっくりと言うと、元々いちエルフの民だったが、ひょんなことから神の心臓から凄いパワーをゲットして神になった者である。
個人的に創作において人間を超える存在としての神、或いは人間よりも上位の種族が出てきた際に、それらの高位存在をどのように扱っているのかに強い興味を持っている。
なぜかと言うと、人間よりも高位の存在であれば人間が知覚できる以上の感性だったり人智を超えた知性というものを持っているだろうと考えられるが、そういった”人間が理解できない何か”をどう表現するのか、という所に創り手の力量とプレイヤーへの信頼が存在するからだ。
そう言った意味で私の経験上、高位存在のあり方を最もわかりやすく体現している者がVivec神である。ゲーム内会話から丸々引用してみよう。
神であるということはジャグラーであるというのに似ている。 何もかもが常に動いているのに、何がどうなっているのか、考ることもなく知ることができる。 ただたくさん、とてもたくさんの物が動いているので、ジャグラーがそうであるように神もまた時には手をすべらしてボールの1つくらいは落としてしまう。 ただ、私は最近ボールを落とすことが多くなったように思うよ。 たくさんのボールを落としてきたような気がする。 あまりにも多くのことがありすぎるのに時間はあまりにも速く過ぎる。 何事も前のようにはできないようだ。 これが老いつつあるということなのだろうか?
起きながら夢を見ているような気さえする。 起きている私は君と共に考え、話している。 眠ってる私は・・・とても、とても忙しい。 他の神、もともと神として生まれし不死の神ならば、おそらくずっと眠っているようなものなのだろう。 時の流れの外で。 私はこの時の流れの中にあり、また同時に時の流れの外にある。
死すべき時を持たないのは悪くない。 私が死んだときには、それはただ時の外にあるというだけだ。 ただ完全に眠っているだけで、いつ起きようかとそれしか考えることがないというのはぞっとしないものだ。 起きれば生き返ったということになるのだろう。 何度も、私はとても長い時間をじっと待ったものだよ。 慎重に、長い時間を待って、それから目を覚ました。 しかし、それは無駄な試みだったよ。 目を覚ましたとき、時間はまったく経っていなかった。 それが神の領域なのだ。 世の中の出来事が、すべて起こり、常に起こり、一度に起こる・・・時の流れの外側なのだよ。
興味深い。元々Vivecはただのエルフの出自だったことも踏まえて随分人間にとって分かりやすい表現をしてくれるが、内容を理解できるかできないかはさておき、”人間と神との全然違う感”を頑張って表現しようとしてくれている。
完全な私感だが、こういった高位存在の描写というものは洋ゲーの方が優れているように思える。一神教も含め宗教への馴染みがそうするのかは定かではないが、TESはVivec以外にも神様の設定が恐ろしく豊富であり、深い。例の1つとしてはTESの神は”良い神”と”悪い神”に分類されるのだが、”良い神”というのは人間にとって有益でも有害でも会話が成り立つ者、”悪い神”というのは意思疎通が困難である者、といった区分になっている。人間にとって有害のさらに向こう、最早人間には理解不能の領域の神が存在することを前提に文化が組まれるというのは和ゲーでは中々お目にかかれないように思える。
こういった高位存在の深さの表現は、創り手にも力量が必要だし同様にそれを見るプレイヤー側にも一定以上の想像力や知性が必要になる。14で高位存在の描写がどうなってるのかを考えると、プレイヤーをどこまで信頼して高位存在を”強く”するのかという閾値について、開発がターゲットとする層を薄っすら察することができるだろう。
ということでゲームをやる時は高位存在の描写に気を配ると面白いかもね。
ってだけの話なのだが。
折角なのでフリーナの話もしておこう。ようやくカフェインにありつけてご満悦な”私の”フリーナがどうなのかはさておき、原神も和ゲーよろしく世界観や文化の深さはさておき、”高位存在”はえらい人間にフレンドリーだし、意味も通じる推論過程と弁論を使ってくる。まぁそうしないとただただ話がややこしくなるからそうなっていると考えるのが自然だろうが、ことフリーナに関してはどうだろうか。
そもそもフリーナはフォルカロスの人間性が体現したものなので”高位存在”と言っていいのかも定かではないが、明確に人間とは違う所がある、不死性のように見える長命性である。
なんかファックされそうになった時に”殺さないで!”と命乞いしたり、裁判で盆に手を突っ込んだりするシーンから考えると不死とは程遠いただの人間なのは違いないのだろうが、不老と長命を体現しているという意味で人間とは異なるのは明らかだろう。事実フリーナに謁見するのは20数代ぶりで光栄だとかいうシーンも入っていたり、一見不死に見えるような人間とはかけ離れた存在であることをベースに統治を続けられていたとも考えられる。
というか驚くことにそれしかフリーナの高位存在を体現するものがない。裁判ではフリーナに対して”お前は実は長命種では”とか”不老の呪いを受けてる”とか言われて一瞬で”長命=人間でないことではない”と見做されてしまったが、本来は明らかにその長命性が人間と逸している点について、大いに反論するべき場面だったろう。ただ恐らくそこで本気で反論したらフリーナが負けないという観点でさらっと流されてしまったように思えて仕方がない。
長命性しかフリーナの高位存在を体現するものがないという観点で、1つ面白いシーンがあることを思い出した。予言を独りで遂行するのが寂しいと嘆く場面だ。なんとフォンテーヌの支配者として君臨してから数百年後にそのシーンが入る。
っかーこの任務つれーわ。さみしいわーと思うのは高々数年で、鈍感な人間でも10年ぐらいで分かりそうなもんだが、実際は江戸幕府が生まれてから終わるぐらいの間隔が空いている。五稜郭で土方歳三に”実は支配者というものは寂しいのだ候”と不死の家康が言い始める絵面を想像すると中々シュールではあろうだろうが、やはり常軌を逸しているというかそれだけでも”やっぱ人間とはちげえや”と思えないだろうか。
この不老性、長命性が基になっているのかは定かではないが、定命としての人間とは異なった時間感覚の描写。これがある意味ではフリーナの神性の表現となっているのではないか、とふと思った次第である。いや、ただただフリーナが可哀想という描写の重みのほうが大きいのだろうが。フリ虐は悪い文明。フリーナを虐めるペエモンは滅びろ。