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沈着①

文芸作品における情景描写について。
情景描写を読み飛ばすと公言する者がいるぐらいには、情景描写というものは小説に於いて重要だがありふれていて、筆を間違えるとすぐに煩雑なものになる。

煩雑な情景描写とは何かを語るのは容易だ。”見たことがあるような”ものがただただ煩雑で陳腐とされる。そう考えていいだろう。以下は私の琴線に触れた、優れた情景描写の例である。

~(中略)~
私はじっとしたまま、小さな川のほとりに長いこと寝そべっていた。水銀のような小川の水は晩夏のそのときも涸れることなく、太古の昔から耳になじんでいたかのようないかにものせせらぎの音をかなでて谷底の大理石の終段を流れくだると、岸辺で音もなくその精気を捨てて、砂浜に染み込んでいく。
W・G・ゼーバルト. カンポ・サント

広場に面した石造りの建物の二階にある暗い住まいには、毎日、大きな夏全体が斜めに通り抜けていった。細かに震える空気の層の静寂、床に映って熱い夢を夢見る数個の矩形の眩い光、真昼の金の鉱脈の奥底から掘り出された手回しオルガンの旋律……どこかで弾くピアノの絶えず初めからやり直す繰り返しの二つ三つの小節が、白い舗道の陽光に失神しては、昼なかの火焔のなかへ迷い去る。
ブルーノ・シュルツ. 八月

強い強い。情景描写が書けるというのがこういう領域なのだとすると、あまりにも壁が高い。
言葉を原子として核分裂でもしとるんかぐらい言いたくなるような次元である。ハッキリ言ってこんなものを模倣して昇華するなんて無理千万(造語)なので、読者のイメージを増大させるという名目での余白を確保するための凝縮したものにしたほうが現実的だろうと思ってしまう。以下のように。

日は、なお少し傾いた。屋根屋根の上に、空は赤味を帯び、夕闇とともに、通りは活気づいて来た。

カミュ. 異邦人(新潮文庫) (p.23). 新潮社. Kindle 版.

あ~美しい。いやまぁこういった凝縮した文章もそれはそれで難度が高いわけだが、短い文章から思考がどう派生するのを考えるのかを組み立てていくほうが、まだ私に合っているように思える。


ようやくゼーバルト読破に向けて本腰を入れ始めて、鄙の宿、カンポ・サント、空襲と文学は読み終わった。
残りは土星の環、移民たち、目眩まし。これまた重いのが残っている。

ゼーバルト作品の根本を為す”キツさ”は色々なものによって成り立っている。
・小説と随筆、歴史解説と批評が合体したジャンル不明の構成
・そもそもの筆力の強さ
・横道の多さ。だがそれはメインテーマに”必ず”連動しているので読み飛ばせない
・その枝葉にこっそり出てくる殊更に重要な筆者あるいは作中に登場する語り手の意志
・ゼーバルト作品全編に共通する”著者の情熱”あるいは”メタ主題”

こう言うのは適切ではないだろうが、WW2は題材として余りにも強すぎる。”アウシュヴィッツはもう飽きた”(要約)と評した者がいたという話が”空襲と文学”にあったが、その主張に同調するようにアウステルリッツがあの構成になったと考えればやはりステレオタイプ的ではないものの、ザ・ドイツが幻想文章の全てを薙ぎ払うほどの火力に満ちている。現実は小説よりもどうのこうの。

実際に”空襲と文学”はドギツい。”ドイツが第二次大戦で被った惨禍は、戦後の文学によって表現されることがなかった”と帯にあるこの本は、幼女戦記が火の試練として取り扱った(と思っている)ハンブルク空襲についての言及ももちろんあり、中々に吐きそうになるような凄惨な描写も当然ある。しかしそこも含めてひしひしと感じるのは、滲み出るようなゼーバルトの情熱、1944年のドイツ生まれというその境遇が見たクオリアそのものだった。アウステルリッツが実はドイツ人の物語であると以前語ったが、ゼーバルト作品はその全てがドイツとしての視野という点で一貫している。

その突き抜けたテーマ性も惹かれる理由ではあるのだが、それよりもやはり文そのものから伝わるゼーバルトの熱量に魅入られているのだろう。作家に必要なのは覇気である。こいつの書くものには意味があると確信を持てれば、どれだけ重かろうが頁をめくる指は進んでいくものだ。