けっこー色々な本を読んでようやくアウステルリッツに感じていた謎の幻想性の正体が見えてきて、自分の中で腑に落ちる解釈をすることができたので筆を取る。
アウステルリッツで特徴的なのは、語り手というクッションがいることだ。語り手を通してアウステルリッツが語るという構図が文章に事実と幻想の曖昧さを提供している──と解釈するのは浅い。
確かにそういう効用も含めて、大部分を占めるアウステルリッツの語りが語り手を通して効果的に強調されている。この多くを語らないパイプ役としての語り手は、アウステルリッツを主人公として引き立てるための演劇的役割を担った人物であると捉えることがミスリードである。ということがこの本の不気味な幻想性の根幹にある。
アウステルリッツが主人公で語り手がサポーター、ではない。
アウステルリッツは”表の主人公”で、語り手は”裏の主人公”。そう捉えると色々見えて来るものがあるのだ。
語り手の特徴を見てみよう。
語り手は必要最低限の起こった事実を淡々と述べて、極力自分のことを語っていない。が、少ないが語り手の痕跡自体は随所に残されているのだ。最初から順を追って見てみよう。
六〇年代の後半、なかばは研究の目的で、なかばは私自身判然とした理由のつかぬまま、イギリスからベルギーへの旅をくり返したことがある。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.5). 株式会社 白水社. Kindle 版.
開幕の文章である。旅を繰り返した理由で、“なかばは私自身判然とした理由のつかぬまま”とある。
それ自体はナンセンスなある考えがふいに脳裡をよぎったのも、おそらくそのせいだったのだろう。この人々は故郷を追われるか滅亡するかした民族の、数少ない最後の生き残りだったのだ、自分たちしか生き残らなかったがゆえに、動物園の動物と同じ苦渋に満ちた表情を浮かべているのだ、と。──その〈失われた歩みの間〉で待つ者のひとりが、アウステルリッツであった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.11). 株式会社 白水社. Kindle 版.
夜行獣館の動物と旅行者を見比べるシーン。これがアウステルリッツの初登場である。故郷を追われるか滅亡するかした民族のくだりが、最終的にアウステルリッツが迫害され、疎開したユダヤ人であることとアウステルリッツの自らのルーツを追う旅に繋がっていくわけで、そのためのつなぎの文章かと思いきや、語り手が“そういった事に対して興味を抱いている”ことを密かに表現している。
翌日の新聞やテレビで眼にし、数週間にわたって脳裡から消えやらなかったそのときの写真からは、なにか私の心をざわつかせ、落ち着かなくさせる気配が発せられていて、それは、ルツェルンの火事の咎は私にある、少なくとも自分は咎を負うべき人間のひとりだ、との想いに凝縮されていった。あれから何年を経ても、私は夢の中で一度ならず天蓋の屋根から火柱が上がり、雪に覆われたアルプスのパノラマが赤々と染め上げられるさまを見たのである。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (pp.14-15). 株式会社 白水社. Kindle 版.
米印で補足されている文章内にある文章。ということは本筋には関係のない枝葉としての話のはずなのだが、語り手にとって事さらに重要なことが書かれている。ルツェルンの火事の咎は私にある、少なくとも自分は咎を負うべき人間のひとりだ、との想いに凝縮されていった。
この時点でだいたい想像つく者もいるだろうが、語り手はドイツ人である。
これは類推でなく、明言されている。
一九七五年末、私は九年間の留守のすえにすっかり他所他所しくなった故国にいま一度腰を据えるつもりで、ドイツに戻った。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.48). 株式会社 白水社. Kindle 版.
そして語り手が心中を語る希少なシーンがある。ブレーンドンク要塞を訪れた時の話である。
逮捕され収容される以前には肉体労働など経験したこともなかった大半の収容者が、ずっしりと土を載せた車を押し、陽に炙られて固まったこちこちの轍の交錯する粘土の上を進み、あるいは雨の翌日、ぬかるみのなか車を押していった様子を、しかし私は思い浮かべられなかった。心臓が破れるほど全身を突っ張って重い荷を押していった様子も、前に進めなくなると見張り番によってシャベルの柄が頭に打ちおろされたさまも、脳裡には浮かべられなかった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.30). 株式会社 白水社. Kindle 版.
収容所としてのブレーンドンクで働かされる人のことを思い浮かべられなかった、とある。これは語り手が戦争の経験者ではないことを示している。
今ブレーンドンクの蟹じみた図面を引っぱり出し、そこに描きこまれた旧執務室、印刷室、収容棟、ジャック・オシェ作品展示室、独房、屍体置場、遺品室、陳列室などの単語からなんとか記憶を手繰りよせようとしてみるのだが、闇はいっこうに散じていかない。いやむしろ、われわれが記憶しておけるものがいかに僅かであることか、ひとつ生命が消え去るたびにいかに多くのものが忘れ去られていくことか、それ自体は思い起こす力をもたない無数の場所と事物に付着していた種々の歴史が、誰の耳にも入らず、どんな記録にも残されず、語り継がれてもいかないがゆえに、世界がいわば自動的に空になってしまうかを思えば、闇はいっそう濃くなるばかりなのだ。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.31). 株式会社 白水社. Kindle 版.
特にこれ。語り手が己の解釈について語る貴重なシーンである。命に対しての認識の重みの言説。
意識の底からW村にあった私の家の洗濯部屋の光景が浮かび上がってき、同時に、天井から垂れたワイヤの先に吊り下げられた鉄の鉤に記憶を喚び覚まされて、肉屋の光景が甦ってきた。それは子どもだったころの私が登校のためにはいやでも通らなければならない肉屋であった。帰り道には店主のベネディクトがゴムのエプロンを当て、太いホースでタイルを洗い流している姿が一再ならず眼に入った。幼年時代の恐怖を封じこめていた扉がある日だしぬけに破られたとき、われわれの心中にいったい何が生起するのか、正確に説明することはおそらく誰にもできまい。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.34). 株式会社 白水社. Kindle 版.
これも貴重な語り手の幼年時代の経験が語られるシーン。
ブレーンドンクの装甲室の中で胸の悪くなるような軟石鹼の臭いが鼻に甦り、その臭いがさらに頭のどこか狂った部分で〈根ブラシ〉(剛毛のブラシ)という、父が好んで使い、私には嫌でたまらなかった語につながっていったこと、そして目交いを黒い毛の塊がぶるぶると震えはじめ、こらえきれなくなって額で壁にもたれかかったことを、私は憶えている。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (pp.34-35). 株式会社 白水社. Kindle 版.
これが何なのかはよく分からない。ドイツ語的言葉遊びが絡んでいるのか?根ブラシという硬そうな何かで、何かを掃除していたことへの嫌悪なのか?先のホースでタイルを洗い流している姿も含めて、ひとえに収容所での処理を想起させる手法のように感じられる。
私が生まれたころにこの場所で行なわれていた過激な訊問なるものがいかなるものだったか、おぼろげに想像がついたというのではなかった。というのも、私がジャン・アメリーの手記によって、アメリーがブレーンドンクで耐え通した拷問のもよう、拷問する側とされる側の軀が怖気の走るほど近寄っていたことを知ったのは、それから数年してのことだったからである。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.35). 株式会社 白水社. Kindle 版.
自身が当事者ではないことの再確認。
しいていうなら帰国してまもなく私の悪しき時代がはじまり、そのために他のひとの人生に対する感覚が鈍磨していたからだったのかもしれない。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (pp.48-49). 株式会社 白水社. Kindle 版.
当時の私は、いささか心穏やかでない状態にあった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.49). 株式会社 白水社. Kindle 版.
ドイツに戻った語り手が陥った心境。
その彼の、眼に疲労をにじませながらも首をこころもち傾げて「おやすみなさいませ」と言った様子が、私には格別の敬意のしるしであるか、無罪放免の言い渡しか、祝福でもあるかのように感じられた。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (pp.121-122). 株式会社 白水社. Kindle 版.
アウステルリッツに寝る時の挨拶をされた時の心境。無罪放免の言い渡しか、祝福でもあるかのよう。ここが強いキーワードとなっている。語り手はドイツ人の末裔として、戦争についての加害意識を抱いていることが明白になっている。
以降は淡々とアウステルリッツの語りで占められるようになり、その間にある僅かな語り手のシーンについては、事実の列挙であり語り手の解釈や思いが綴られることがない。
靴紐を解きながら、ちょうど隣の部屋を歩き回る音の聞こえてきたアウステルリッツのことを考えた。あらためて顔を上げると、暖炉の上にちょっとしたコレクションがあるのが眼にとまった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.203). 株式会社 白水社. Kindle 版.
アウステルリッツについて何を考えたかについての言及がない。
そして語り手の解釈は最終盤になるまで表れない。アウステルリッツと別れた後にようやく少し出てくるだけだ。アウステルリッツと別れた後に語り手は再度ブレーンドンク要塞を訪れる。
不吉な夢から目覚めると、まだ薄闇に沈んでいる家々の上を、十分から十二分の間隔をおいて、飛行機の銀色の機影が小さな矢にも似て抜けるような青空を横切っていった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.351). 株式会社 白水社. Kindle 版.
いやな夢の内容は語られない。
かつてとおなじく、私はかなり逡巡したが、結局この度は入ることはできなかった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.351). 株式会社 白水社. Kindle 版.
結局ブレーンドンク要塞の奥部には入れなかった。
屋根が、壁が、暑さにきしんだ音を立て、ふいに、砂漠を行く聖ジュリアンのように自分の髪の毛もばっと燃え上がるのではないかという想念が頭をよぎった。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.352). 株式会社 白水社. Kindle 版.
全く意味がわからないのでo4に聞いたところ、フロベール「3つの物語」にある「聖ジュリアン」が元とのこと。私は「天罰」と解釈したが、それよりも「精神的熱病・幻想と救済の境界」を示唆するらしい。真偽不明。私の教養が足りない。
私はブレーンドンク要塞の水堀の畔で『ヘシェルの王国』第十五章を読み終え、帰路についた。メヘレンに着いたときは、夕闇が立ちこめていた。
W・G・ゼーバルト. アウステルリッツ (p.354). 株式会社 白水社. Kindle 版.
結局のところ、物語はこう締められる。要塞内を訪れること叶わずに、本を読んで帰った。それがドイツ人としての罪の重みを直視できないのかは分からない。ただ、ここまで見ればもう明らかだろう。
本著、アウステルリッツの本質というのは、
・”語れない”加害側ドイツ人末裔としての語り手
・”語れる”被害側ユダヤ人末裔としてのアウステルリッツ
が出会い、会話をする物語なのである。
一見するとそれはアウステルリッツの語りが主題のように思えるが、その裏には”語ることができない”語り手の立場や葛藤があってこそだと解釈できる。この両者間の倫理的緊張こそが、この本がもつ比類ない幻想性の正体なのである。
ということを再読して思ったが、おそらくまだ足りない。
ゼーバルトの他の著作を一周してから再度読んでみることにしよう。
<追記>
重要なことを書き忘れていた。さきほど引用した最後の文章。
“メヘレンに着いたときは、夕闇が立ちこめていた。”
これを最初に読んだ時にはその美しさに震えたわけだが、その理由も今にして分かる。
これが語り手の心象風景を表していると解釈するとどうか。夕闇が立ちこめていた、というのは明らかにネガティヴな表現だろう。
語り手は最後に再度ブレーンドンク要塞に赴くが、逡巡して中に入れずにその場を去った。それが示すものは──語り手はドイツ人として戦争に対する罪の意識を持っており、アウステルリッツとの対話を通しても罪の意識についての結論を見出だせずにいる(序盤と終盤での二度のブレーンドンク要塞訪問で行動が変わらない)ということになる。
そしてこの本の幕切れがどうなったのか。アウステルリッツは母の痕跡を得て、父とマリーの痕跡を追うための旅を続ける。語り手は自身が持つ罪の意識に向き合う旅を続ける。それがこのメヘレンの描写に凝縮されていると考えるとどうか。美しい終わり方であり、また比類ない構成の妙だ、と改めて思う。